学生の頃、一晩中、クルマでドライブし続けて、よく遊んでいた。理系の単科大学だったために男ばかりだったが、3人も4人も小さな車に乗り込んで、夜中、走り続けるのだ。昼間でもあまり行かないような山奥の道を、まぁまぁのスピードで走っていた。
カーナビは超高級品で、スマホどころかケータイもポケベルも持てなかった時代、冊子の紙でできた地図をみながらどうやって道を走っていたのか、もうあまり思い出せない。ただ、街灯もない山奥の、真っ暗で、うねうねと曲がりくねった山道を、延々と走っていたのを覚えている。
舗装されている道路は、だいたいは線が引いてある。大事なところには、線の上にライトにあたると光る「アレ」が埋め込んである。「布石」と呼んでいたが、正式には「縁石鋲」と呼ぶらしい。
「なんだ、人生もアレにそっくりじゃん」
あれから何十年か過ぎて、まがりなりにも見えてきた自分の人生は、学生時代の深夜のドライブとものすごくよく似ていた。「この世界の出来事はすべて何かの象徴だ」という哲学的な論議がよくあるが、それをいうなら、真夜中の山道を車で走るあの感じは、まさしくその後の人生を教えるような「象徴」だった。
- 周りはすべて真っ暗。
- 見えるのは、ライトに照らされた何メートルか先だけ。
- 道には布石が打たれていて、こっちへ行くといいよ、と示されているようには見える。
- 道はうねうねと曲がりくねっていて、布石もカーブして闇に消えていっている。
- その布石に、従うも従わないも自由。
山道でその布石に従わなければ、崖から真っ逆さまに落ちるかもしれない。
平凡な人生では、崖から真っ逆さまというほど、わかりやすく落ちないので、自分が従ったのか従わなかったのかもはっきりしない。あえて振り返って考えることがなければ、自分が布石に従ったのかどうかさえわからないことが普通だ。
まるで目隠しされているかのように、先のことは見えないし聞こえない。小説やドラマではみなそういうふうに描かれて、共感を呼んで人気が出ているから、きっとみんなそうなんだろう。
それでも、ごくたまに、まるで突然昼間になったかのように、ババっとみえるときがある。まるで夢の中の出来事のようで明確に思い出せないが、感覚的にはこの10年の間に3回ぐらいあった。
それは道に象徴される過去・現在・未来だけではなく、その上に立体的に展開されるいろいろな出来事もみえる。その中にある因果関係、あるいは、人間関係がどこでどうつながっているのか、一瞬で一度に、限定された空間の中がすべて明るく影さえもなく、はっきりとみえる。
不思議なことに、感情的な因果もみえる。つまり、マインドというか、心と心のぶつかり合い、ふれ合い、感情面の解決・未解決まで、立体的な因果関係が線で結ばれているかのように、パッキリと見える。ただし、それがどうなっているかを分析するのは、夢を思い出すような作業になって、うまくいかないし、細かいことはどんどん忘れていってしまう。
禅でいう「小悟」の感覚というのは、こんな感じなのかもしれない。すっきりはっきりして、実際には何も進んでいないのだけれど、すべて解決したような気がする。
これでいいのだ、がんばろうと、背中をおされた気がするのだ。
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