私は、コーヒーに祈る。
何を言っているかわからないかもしれない。変人だとかアホだとかオカルトマニアだとか思われるだろう。神社で手を合わせるならわかる。祭壇に向かって祈るのだ。神に向かって祈るのだから、万国共通だし昔からの習俗だし、みんなやってる普通のコトだ。
でも私は、コーヒーに向かって祈る。正確に言うと、ドリップコーヒーを入れるときに、ミルで粉々にされたコーヒー豆と100円ショップで買ってきたペーパーに向かって、祈るのだ。手を合わせ精神統一して、本当に真剣に祈る。でもそこは祭壇ではなくキッチンで、前にあるのはドリップされる前のコーヒーマメだ。
なぜ祈るのか。おいしいコーヒーになってほしいからだ。
「ゴッドハンド」とよく言われる。
一流の料理人は鍋にさわるだけで鍋の中にある料理がおいしくなるのだ。あるいは、おはしやスプーンでなく、手で混ぜなければうまくならない、というレシピだっていっぱいある。つまり、大なり小なりだれでも持っている力なのだろう。しかし、料理人が鍋に向かって手を合わせるのを聞いたことはない。
材料や道具は、ごくごく一般的だ。
マメはちょっと背伸びして成城石井のプライベートブランドだが、ミルで挽かれたものを買ってくる。ペーパーは100円ショップで買ったエコな茶色いものだ。ドリッパーも同じく100円ショップで買ったプラスチック製。サーバーは先日割ってしまったので、少しフンパツしてAmazonの売れ筋のHARIOを買ったばかりだ。
淹れ方の手順は、おいしい淹れ方を調査研究して、できるかぎりマネする。
そのためにわざわざ細口のポットを買った。沸騰したお湯は少し冷ます。まずは少しだけお湯を注いでむらす。ドリッパーの中の粉全体が湿るぐらいの量を入れる。しばらく眺めて、泡がぷくぷくと出てこなくなった瞬間をみはからって、即座に、しかし、ゆっくりと丁寧にお湯を注ぐ。
濃い目にいれたいからお湯の量を少なめにして一気にいっぱいまで注がない。そのため、むらしに入った瞬間から、実はコーヒーの前をはなれられない。だれかとしゃべったりすることも許されない。ドリッパーの中のお湯ができるだけ同じぐらいになるように、コーヒーの粉が水圧でかたよらないように、少しずつゆっくりとぐるぐる回転させながら、丁寧にそそぐ。
粉はあらかじめ人数分をはかるのだが、私はいつもテキトーな量をいれる。おそらく普通より少ないが、ゆっくり淹れるので薄いということはなくむしろ濃い目。一定の量が入ったらドリッパーの中のお湯がなくならないうちに、すばやく流しに移して、こぼれるのを防ぐ。
この世的においしいと言われる手段は、できる限りすべてサボりなく遅滞なく行う。それらを行う前提で、さらに淹れる前に、祈るのだ。
神様でもなく先祖でもないコーヒー豆に向かって、何を祈るのか。
おいしいコーヒーになってねと祈るのだ。ものすごくストレートで素直なのだ。
そして、コーヒー豆の一生を想い浮かべる。
南アメリカかインドのほうか、どこなのかわからないが高原のようなところで、たくさんのコーヒーの木が栽培されている。そこでとれたコーヒーの実が、乾燥され取り出されて袋詰めにされる。そして、船でゆっくりと運ばれてくる。工場に入り、焙煎機の中に入れられて、焙煎される。あるいは、選別され、他の豆と混ぜられたりする。
そのあと、ミルで粉々に引き裂かれ、小分けに袋詰めにされる。袋はダンボールに入りトラックで運ばれる。店頭に並べられる。それをある日、私が手に取り、レジでおカネを払って持って帰り、冷凍庫の中に放り込む。何日か何週間か冷凍保存されたあと、出てきたときにペーパーの中に放り込まれた、その直後に祈りは開始される。
あるいは、ペーパーだって同じだ。使い捨てだ。
南アメリカなのかインドのほうなのかわからないが、どこかに生えていた木が切り倒される。切られ削られ、あげくのはてにドロドロに溶かされて、紙の形に加工される。これは再生紙だから、一度どこかで使われて捨てられたあと、さらにドロドロに溶かされて、ドリップペーパーの形に変わったのだ。そこには木の一生がある。すべての時間がそこに含まれている。
だから、コーヒー豆だけでなく、ペーパーに向かっても、祈っている。
彼らは身を呈して、人間の趣味に付き合っている。その身を犠牲にして差し出して、人間にいっときの癒やしを与えている。だからそれに関心を向けて、心から理解し、その身を犠牲にしてくれたことに感謝する。涙を流しながら感謝する。
本当にうまいのだ。超絶うまい。
だから、おととい読んだ動物霊魂論、つまり「動物に魂はあるのかないのか」という難しい哲学議論が、哀れみの対象としか思えなくなるのだ。
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